陸奥、と名を呼んだら、何、と返ってきたから、少し驚いた。
寝ているのかと思っていた。
「寝てたんじゃねぇのか」
「おまんが呼んだから起きたんじゃ。人ん安眠妨害しよって」
陸奥はセーラー服の襟を揺らしながら大儀そうに起き上がった。背中についたホコリをぱんぱんと掃う。
それを横目に高杉は深く煙を吸い込んだ。
「ああ、もう帰る時間か」
腕時計をはめた腕を横にして陸奥は一人納得している。
別にそんな理由で呼んだわけではないが、特に理由もなかったのでそのままにしておいた。
ぐるりと巻いた腕時計の革のベルトが指二本程余っている。手首の血管が透けて見えた。
どんな音をして折れるのだろう。
何とはなしに思いながら、ゆるく煙を吐き出せば夕焼けの赤に思いのほか映えた。
屋上に差す西日が暑い。夏が近づいているのだ。
陸奥は薄く隈のできた目をまだ眠そうにこすっている。
家ではうまく眠れないのだろうか。その理由を高杉は知らない。
「見事だな」
何が、と訝しげな視線を寄越したので、夕焼け、と答えた。
納得したらしく、目を前に向け、沈む夕日を食い入るように見つめている。
陸奥は少し考える素振りを見せたあと立ち上がったかと思うと、金網に向かって真っ直ぐに歩いていった。
歩調の余りの迷いのなさに眉を顰める。
爪先が擦れた上履きと靴下を脱いでいる。そのまま音を立てて金網を登りだすのでさすがにひるんだ。
「おい」
陸奥は一瞬だけこちらに目をやったが、すぐにまた錆び付いた金属の危なっかしい音をさせながら登りだす。
邪魔をするなとばかりのその行動に腹が立った。煙草を踏み潰してから陸奥の後を追うと、陸奥はもうあちら側に回ったところだった。
降りる瞬間金網にかかった手が落ちそうになったのでひやりとした。
金網の向こうにある顔はじっと夕日のほうを見ている。
「おい」
「遠いなァ」
会話がちっとも噛み合わない。
「こっちに来れば少しは近づけると思ったんじゃけどなぁ」
陸奥の横顔は日に照らされて赤く染まっていた。
赤茶色に汚れた両の手は金網から離れ、からだの横で僅かに揺れている。スカートの裾が風に吹かれてまくれ上がっているが気にしていないらしい。一歩前に踏み出せばすぐにでもあちらの世界へいけそうだ。
成仏はできなさそうだとも思うし、あっけなく成仏してしまいそうだとも思う。
この女に未練などあるのだろうか。
少なくとも、自分はその未練にはなれはしない。あのモジャなら或いは、いやしかし。
奴は何処へ行ったのか。
「遠いなァ」
陸奥にはきっと、縋るものが少なすぎた。
それを可哀相だとは思わない。憐れだとも。
そんな感情は陸奥には不要なものだろう。
「陸奥」
伝えたいことなんて、何にもなかったけれど、名を呼んだ。
なぜだか陸奥が消えてしまうような気がした。誰にも知られず、深海で崩れゆく化石のように、静かに。
「なぁ高杉、」
相変わらず遠くを見つめたまま陸奥が呼ぶ。
「おまんは、どこにいるろー?」
右手で金網を掴むと鈍く音が響いた。
ここだ、と云うと、ようやく陸奥の目は高杉の姿を捉えた。
沈みつつある夕日は尚更に赤くかがやいている。
眩しくて、残ったほうの目を細めた。
右の手に陸奥の左手が金網越しに触れてきた。錆がついてざらりとしている。
陸奥が、そうか、と笑った。