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いーち、にーい、さーん、しーい…






声が聞こえる。

此処は、何処だ。


軋んだ音をたてながら釣瓶を曳く音。
少しぬかるんだ道に窮屈そうに連なる低い乾拭きの屋根。
折り重なる葉の間から零れ落ちる陽光。
せわしない蝉の声。
路傍には季節外れの曼珠沙華がひっそりと咲いている。

家々の間を数人の子供が方々へ散り、駆けて往く。
笑い声が辺りに響き、井戸端の女達は夕餉には戻るんだよ、と声を掛ける。

一人の子供が振り返り、大きく手を振った。満面の笑みを湛えながら。

風が吹き、袂が風に緩く膨れる。砂利を蹴って駆け出した。何時ものように逃げる側として。
普段それ程じゃんけんが強いわけではないのに、この遊びに限っては滅法強いのだ。



どうして俺は、そんなことを知っている。


誰だ。あの子供は。あんな顔は知らない。
誰だ。






ごー、ろーく、しーち、はーち…







蝉の鳴き声がやけに耳につく。花の赤に夏の日差しが反射して眩しい。








あれは―――俺だ。







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「……田、神田!」
「!!」

跳ねるように起き上がると、目の前の影が、きゃ、と小さく悲鳴を上げた。
聞きなれた声に、そちらを見やる。
「…何だ」
「何だ、はないでしょう?さっきからずっと話しかけてるのに、神田ったら起きないんだもの」
頬を僅かに膨らませてそう言い放つ人物は、やはり己のよく知る少女だった。
夢を見ていたのだと思う。夢の内容はぼんやりとしてよく思い出せない。ただ、耳にこびりつくような音だけはしっかりと残っている。あれほど騒がしかった蝉の声は、もうしない。
当たり前だ。今は夏ではないのだし、そもそも故郷ですらないのだから。随分長く居るが、この土地で蝉の鳴き声など聞いたことはない。いないということはないのだろうが、おそらく数はそう多くはないのだろう。
くそっ、と胸中で毒づいた。何故だか苛々する。寝起き特有の喉の気持ち悪さだけが原因ではない。それでは何故かと問われれば答えは返しようもないのだが。
ここに居ては駄目だという気がした。今すぐに、一人になりたかった。
「だから、何だ。何か用があんじゃねェのかよ」
「神田、この間の任務、まだ報告書出してないでしょ?」
「…つまりは、急かしにきたのか?」
「まぁそういうことになるわね。…今は一刻も早く、例えそれがどんなに些細なことでも、伯爵側のデータを集めなきゃいけないから。この間の任務からあまりたってないし神田も疲れてるとは思うんだけど。ごめんね?」
「別にいい」
ソファーから起き上がり、改めてあたりを見渡す。談話室。こんなところで眠りこけていたのか。他に誰も居なかったことを幸いというべきか。無防備な姿を晒すのなどまっぴらごめんだ。
だるい。そのうえ口内が少しねばついて気持ちが悪い。
さっさと報告書を仕上げてコムイの野郎に出して、茶でも飲んでから部屋で寝よう。談話室のソファーなどという中途半端なところで寝たからきっと気分が悪い夢を見たのだ。今度は夢など見ずに寝てしまおう。

そのまま後ろを振り返らずに、談話室の扉をくぐり部屋へと向かう。ざわめく声が聞こえるが、音の出所からはこの廊下は遠く、床を打つ足音がやけに響く。空気を振るわせる足音は――二つ。
口内で軽く舌打ちする。
「まだ何か用か」
吐き出した声が思いのほか冷たかったことに自分で驚いた。
共に居たいという気持ちに嘘偽りはない。けれど今は誰かといるのが嫌でたまらなかった。気持ちが悪い。咽の奥につっかえたこの気持ちも、それが何なのかわからないということも。
冷たい声を出したことに何となく後ろめたく、少し伺うようにして見ればリナリーは控えめに笑んでいた。小さな唇が言葉を紡ぐために少し開く。

「神田、夢、見てた?」

寝てる時、何だか少し楽しそうだった、と云う、その声が遠ざかる。
身体が強張っていくのがわかった。何故だ。
喉が干上がっていく。何故だ。
眩しさに目が眩む。眩しい?馬鹿な。ここを何処だと思っている。
ここは 何処だ?


「ちょっ、神田!?」
慌てたような声が彼方に聞こえた。景色が揺れる。
「おいてかないでよ!」



心臓が どくり と 音をたてた。



「え、ちょっと神田っ!?」

背後の声が遠ざかる。遠くの喧騒が耳についた。
何で俺は走っている。何を俺は焦っている。
焦っている?いや、違う。
何だ?何に追われている?
零れる陽光。胸の刻印。追うものは、もう戻らぬ過去か、途切れてしまう未来か。
馬鹿馬鹿しい。
喧騒が近づいてくる。喧しい程耳を打つ。
蝉が、
蝉が、鳴いている。
姿は見えぬ。塗り潰されてしまった。
ぬかるんだ道、低い乾拭きの屋根、零れ落ちる陽光、笑い声、彼岸花。もうないのだ。
どこにもないのだ。
ここは 何処だ?
ここは まっくら。


「神田!」
「!」
背中に鈍い衝撃を感じた。視界が一転。咄嗟に受身をとったが右肩から地面に打ち付けられた。
湿った土と枯葉の匂い。視界を上げればばらばらと舞い上がる落ち葉の向こうにくすんだ空が広がっていた。
いつの間にか塔の前の森まで来ていたらしい。そんなことにも気付かなかった。どうかしている。
腹の位置の重みが身じろいだ。
「リナ…」
リナリーの長い黒髪から黄や茶の葉が零れ落ちる。口をついて出たその名は酷く掠れていた。
「全くもう、急に走り出すんだから。ついイノセンス発動しちゃったじゃない。じゃんけんもしてないのに、私自動的に鬼?神田と鬼ごっこなんて初めてやったわ」
体についた落ち葉を払いながら、眼前の人物ははにかんだ笑顔を見せた。足元を見れば、なるほど鋼鉄の靴が発動されていた。
じゃんけん。鬼。
鬼事。
「ンなもん、するかよ」
もはや完全に先程の夢を思い出していた。
頭は明瞭(しっか)り機能している筈なのに、何故か水の中にいるようにぼんやりしている。どうもおかしい。己とは異なる人物が勝手にこの口を使って喋っているようだ。けれど紡ぎだされる言葉は凡て真実の心なのだということだけは理解できた。自分のことなのに理解も何もないが、他の誰かが代弁しているような、奇妙な感覚がする。
「夢を見た」
代弁者は言葉を零す。彼女は静かに聴いている。途端にあの夏の日差しが目に浮かんだ。
眩しすぎて目が眩む。遠すぎて眼が暗む。
何故今更あんな夢を見るのだ。眩しすぎる。浮き彫りになる。夏の日差しは強すぎて、影はいっそう暗さを増す。もう、戻れはしない。彼岸花が揺れる。
あれから随分と経った。
初めは訳が解らなかったこの国の言語にも馴れた。母国語は基本的には喋ることは出来るだろうが、細かい用法などまだ覚えているかどうかは怪しい。
自分も変わった。変わってしまった。それでもどこかで縋ろうとしていたのかもしれない。光を求めていたのかもしれない。そのことを思い知らされた。
思い出は時として毒となる。大事なものは身を救いもするが、道を阻むこともある。
己の国では人の人生を花になぞらえることがある。たしか仏教であったか、では少女の母国にも当てはまる筈。幼い頃に聞いた話である。自室にある朽ちかけた花を思う。
己の人生はどうだったか。瑞々しい植物とは程遠いことだろう。葉さえもつけているかどうか。
葉をつける前に咲く花もある。しかし、
――死んで花実がなるものか。
ならば自分がすべきことは縋らぬことではないか。蔓を伸ばし、他を引きずり込まないために。静かに独り、枯れていくために。
縋ってはいけない。総てを置いて逝くと、遥か昔に決めた筈だ。
誓った筈だ。それを、俺は。
いつの間に大切なものが出来てしまったのだろう。
過去の温かさを振り切ったつもりが、この温もりに、しょうこりもなくまた手を伸ばそうとしていた。身のほど知らずとはこのことだ。
自分が少女をどう想っているかなど、とうの昔に識っている。少女が自分に向ける気持ちも。だからこそ、手を伸ばしてはいけない。
わかっているつもりだった。何一つ残して逝かないから、と、自分勝手な理屈を作り出して。結局はただ温もりの心地よさに甘えていただけだった。最後まで共にいることは、少女の望むところでもあるとも思っていた。ならば、これでいいと。
いいわけがないではないか。彼女のためになどとは驕りにも程がある。
共に居たくて堪らない。離れることを考えられない。今だけでいいからと甘えた気持ちが首をもたげる。
今、一人になりたいと思う。この浅ましい想いの渦に気付かれる前に。
独りにはなりたくないと思う。生を望まれることを捨てきれない。心では解っていても、気持ちが言うことを聞かない。掴んだ手を離せずにいる。それはつまり――縋っているということなのだろう。
でも、でも、と。餓鬼じゃあるまいし。深くなりゆく闇に、気付けぬわけでもあるまいし。
少女は追いかけてきた。何の迷いもなく、逃げる俺を追ってきた。それは、今だけだろうか。
「お前は、来るな」
リナリーが小さく息を飲んだのが、気配でわかった。
「俺の処に、来るな」
杞憂だとはわかっていた。兄が居る限り、その生を奪われぬ限り、少女はずっとここに居るだろう。
だが――鬼事は、逃げる者を捕まえねば終わらない。姿が見えなくなって、それでも。
じゃんけんなどするものか。鬼にしてはいけない。追わせてはいけない。
「追いかけんな」
あの夢は、二度とは見まい。
時は迫っている。
ひゅうと風が吹き、リナリーの髪を揺らした。




冬が来るのだ。