ゆるくカーブする山路を篚口は一人歩いていく。行き先は決めてはいない。ただ眼前に続く道をひたすらに辿る。その足取りに魔人を追い詰めた際の軽やかさは、ない。
人里離れた山奥には人口の明かりは届かず、頭上には零れ落ちそうな星星が、流れる雲の隙間からきらきらと瞬いている。しかし、視線を落とし歩き続ける篚口の眼にそれらが映ることはなかった。
ひどく疲れている。頭も、身体も。
こころも。
篚口は飄々とわらう面の下で、いつだって世界に疲れていた。
かれにとって、世界はあまりにも容易で稚拙で、けれど幾度も苦しく昏い夢を見させるものだった。
それは時折かれの傷を抉りながら、ひたひたと迫ってくる。篚口は逃げる。見ないように背を向ける。覚醒するまでそのままでいる。そして眼を開けたなら、現実という平行棒を渡るのだ。軽々と。きっと眼を閉じていたって渡っていけると、かれは自負していた。
なんてつまらない、くだらぬ世界。
篚口はそう思い込んだ。思い込まずにはいられなかった。
世界がすべてかれの敵として眼前に差し出された、あの日から。






朝から雲一つないよく晴れた空で、胸を踊らせ駆けた帰り道には透きとおるような青が広がっていた。
長い梅雨を終え、夏も間近に控えたあの日。世界はようやく輝きを取り戻すのだと信じていた。
自分の力で成し遂げた充実感と、これからの日々に胸を踊らせて。
締め切った暗い部屋のカーテンを開け放ち、まずは空を見せようと思った。二人とも、もう何年も目にしていないだろうから。それから、それから。ああそうだ、帰ったら何よりもまずただいま、と言うんだ。きっと二人とも、ちゃんとこっちを見て、おかえり、と返してくれる。もしかしたら帰りを今か今かと待っているかもしれない。早く帰らなくちゃ!


カーテンの隙間から鮮やかな赤が漏れ出して、フローリングの木目の上に直線を描くように広がった。
幼いかれは両親だったものを見上げながら、腕をかかえてまるくなり、部屋の隅に蹲る。
奥歯が小刻みにぶつかり合う音だけがこの部屋の音の全てで、空っぽなのかいっぱいなのかわからない頭に響いて、がんがんした。早鐘のように打つ鼓動が、この場にひどく不釣り合いな気がした。もしかしたら、不釣り合いなのは自分自身だったのかもしれなかった。
ただ、
ただ、向かい合って、“結也”と呼んで、一緒に話したいだけだった。
笑ってくれなくてもいい。叱ってくれてもよかった。何だって構わなかった。
声が聞きたい。そこに”居る”のだとわかりたい、”ここに居る”のだと知ってほしい。
“普通”がほしいだけだった。
なぁ、それとも、
間違ってたのはおれのほうだったのか?

カーテンが真っ赤に染まって、どうしてと何十回目かの問い掛けを終えた時、
(俺は世界を諦めた。)
そのつもりだった。
今ならわかる。
それは、
自分を守るためだった。

間違っているのは自分ではない。
間違っているのは両親だ、彼らを嵌まらせた仮想世界だ、そんな事態を放っておいた現実世界だ。

間違っているのは、この世界の在り方だ。

ああなんてつまらない、くだらない世界!






(…俺は結局最後まであの人たちの子どもには戻れなかったよ、桂木)

ふたりが生きていたころ。
機械音が低く鳴り響く部屋。
声をかけてもなにも返してはくれない、無言の背中。
だからかれは声をかけることをしなくなった。

(おまえは犯罪者じゃないって言ってくれたけどさ、やっぱり俺は二人の“現実世界”の破壊者で、二人を死に追いやった張本人なんだ)

諦めずに声をかけていたならば、なにか変わっていただろうか。
大声で呼び、キーボードを叩く手を引き剥がし、己の小さな手で握りしめ、ひっぱって、
抜け出せただろうか。なにも壊すことなく。
あんな真っ暗闇から。

今ではもうなにもかも遅すぎる。

けれど、

「…歩いてりゃ、どっか出る、か」
先程別れた少女に己が言った言葉だ。
篚口はため息を吐くように、少しわらった。まさか自分の口からあんな台詞が出るとは。
脳裏に焼き付いた、真っ赤な部屋を思う。
そこは仮想現実への入り口でもなく、もはや帰る”家”でもなく、ただ、赤く、紅く、あかく。
その中心で、蛹のようにじっと息を潜め、震えている自分。
終わりの始まり、始まりの終わり。もう出られないと信じ込んだ。
深くてあかい暗闇は、常にかれを包んでいた。


青い闇の中を、それよりも深い藍の雲が滑らかに流れていく。欠けた月が顔を出し、篚口の行く道を照らした。
深とした空気の中、穏やかに流れる風が篚口の前髪をさらさらと揺らす。
進んでいけば、どこかへ出ることができるなんて考えたこともなかったのに。
両の足の力は抜け、半ばふらつきながら、それでも篚口は歩みを止めない。

月が照らす。木々がざわめく。
篚口はひとり歩いていく。


あかい繭がほつれだし、かすかな光が差し込むのを、感じながら。











元ネタは阿部公房の「赤い繭」。誕生日おめでとう篚口!(9/28)